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2008年07月27日
武田信玄、北条氏康の度重なる関東侵攻、由良成繁、佐野昌綱、佐竹義重、北条高広ら関東の諸将が上杉謙信に背いた。
甲・相・駿三国同盟が破棄。今川氏真が救援を求めてきた。ここに上杉謙信の「敵に塩を送る」というエピソードが残っている・・・。続きを読む
甲・相・駿三国同盟が破棄。今川氏真が救援を求めてきた。ここに上杉謙信の「敵に塩を送る」というエピソードが残っている・・・。続きを読む
2008年07月21日
武蔵・松山城を奪還するため北条氏康は約5万の兵を動員。武田信玄と連携して上野・武蔵の上杉謙信方の諸城を次々と攻略していった。
常陸・小田城城主・小田氏冶が北条氏康に応じた。唐沢山城城主・佐野昌綱は再び北条氏康に味方、関東の諸将に呼びかけ反旗を翻した・・・。続きを読む
常陸・小田城城主・小田氏冶が北条氏康に応じた。唐沢山城城主・佐野昌綱は再び北条氏康に味方、関東の諸将に呼びかけ反旗を翻した・・・。続きを読む
2008年07月13日
上杉謙信の関東侵攻は、山内上杉憲政の救援要請により永禄3年(1560)から始まった。この時、上杉謙信31歳であった。
天文21年(1552)、小田原城城主・北条氏康に敗れた上杉憲政は上杉謙信に関東奪回を要請。以後、上杉謙信は関東へ13回(12〜13回との説もある)出兵するのであった・・・。続きを読む
天文21年(1552)、小田原城城主・北条氏康に敗れた上杉憲政は上杉謙信に関東奪回を要請。以後、上杉謙信は関東へ13回(12〜13回との説もある)出兵するのであった・・・。続きを読む
2008年07月06日
先に動いたのは武田信玄であった。武田軍は、軍勢を二手に分け上杉勢を前後から挟み撃ちしようと考えた。世に言う「キツツキの戦法」である。
一方、妻女山に陣を構えている上杉謙信は武田軍の動きを察知、挟み撃ちされる前に下山し前方の武田軍本隊を急襲しようと考えたのであった・・・。続きを読む
一方、妻女山に陣を構えている上杉謙信は武田軍の動きを察知、挟み撃ちされる前に下山し前方の武田軍本隊を急襲しようと考えたのであった・・・。続きを読む
2008年06月22日
戦国史上、最大の死傷者を出した「川中島の戦い」。この「川中島の戦い」とは、おもに「第四次川中島合戦」の事を言います。
上杉謙信、武田信玄、両雄はこれまで一進一退の戦いを繰り広げてきた。だが、ついに「雌雄を決する」戦いが今まさにはじまろうとしていた・・・。続きを読む
上杉謙信、武田信玄、両雄はこれまで一進一退の戦いを繰り広げてきた。だが、ついに「雌雄を決する」戦いが今まさにはじまろうとしていた・・・。続きを読む
2008年06月15日
ついに両雄、上杉謙信と武田信玄は川中島で激突! 川中島合戦は、天文22年より始まり12年にわたって5回戦われた。
上杉謙信は武田信玄の智謀を恐れ、また武田信玄は上杉謙信の軍才を恐れた。両雄は、策を巡らすがお互いその策には乗らなかった・・・。続きを読む
上杉謙信は武田信玄の智謀を恐れ、また武田信玄は上杉謙信の軍才を恐れた。両雄は、策を巡らすがお互いその策には乗らなかった・・・。続きを読む
2008年06月08日
武田信玄は、越後の家臣団組織を見抜き巧みに内応工作を仕掛けていたのであった。天文23年(1554)12月、北条高広が長尾景虎に反旗を翻した。
翌天文24年1月、長尾景虎は北条城攻めを命じた。 安田景元、柿崎景家、宇佐美定満、直江景綱、本庄実乃、大熊朝秀らが参戦・・・。続きを読む
翌天文24年1月、長尾景虎は北条城攻めを命じた。 安田景元、柿崎景家、宇佐美定満、直江景綱、本庄実乃、大熊朝秀らが参戦・・・。続きを読む


