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【 上杉謙信 】上杉謙信は家臣の反逆に悩む。上杉謙信のルーツは? 家臣団との間に意識のズレがあったのか? 何故?越後国主として君臨できたのか・・・
【領国統治?】武田信玄・上杉謙信 戦国最強神話
【 武田信玄 】
武田信玄の強さは、単に合戦が強かったというだけではない。政治・経済・軍事のどれをとっても他の戦国大名より優れていたと言えよう。
なぜなら、武田信玄を支配原理の範(はん)とし、後に天下人となり徳川幕府を開いた徳川家康も武田信玄の領国経営策を学んでいる。
それほど、武田信玄の領国経営手腕は卓越しており、「名政治家」、「名経営者」と言っても過言ではないだろう。
では、その武田信玄の領国経営とはどのようなものだったのだろうか?
天文16年(1547)に公布された分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」は全57か条からなる。
この「甲州法度之次第」の内容は、家臣団の統制や治安に関する規定、農民保護の規定、税金や宗教問題の規定、借金や質地・悪銭を取り締まる規定などその他。
さらに、「武田信玄自信もこの法を守らなければならない」という規定まで定めており、こと細かく制定されている。
戦国時代には、武田信玄以外にも多くの戦国大名が分国法を制定しています。しかし、「甲州法度之次第」のように具体的な内容をこと細かく示したものは他に類をみないという。
武田信玄が「甲州法度之次第」を制定した理由には、国人領主に対する統制強化が目的であったとされる。それは、戦国大名にとって国人領主の支持は重要と考えられたからだ。
例えば武田信玄の場合、国人領主の支持を得て父・武田信虎を追放し甲斐国主となっている。だからこそ、武田信玄は国人領主を統率しなければ国を治めることはできないと考えたのであろう。
だが、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼は、国人領主の大量離反により武田家滅亡という憂き目をみたのであった・・・
【 上杉謙信 】
上杉謙信の領国支配は、生涯にわたって家臣の反逆に悩まされたという。
上杉謙信のルーツは、越後長尾家。関東管領・上杉家に守護代として仕えた家柄。その後、越後国主となり、関東管領・上杉憲政から関東管領職と上杉姓を譲り受け名を上杉謙信と改めている。
上杉家といえば藤原一族の名門・関東管領を務める家柄である。その上杉家を家臣筋である長尾景虎(上杉謙信)が主家を継承したのだ。
そのため、もともと家臣筋であった長尾景虎(上杉謙信)が家臣団を権力で服従させることは困難であったと想像する。
また、上杉謙信は家臣団との間に意識のズレがあったように思われます。上杉謙信は、「義」に厚く頼まれれば利害を度外視して出兵。
しかし、家臣団の中には自らの領土拡大を望む者もいる。これも当然と言えるだろう戦国時代なのだから。それに、出兵すれば軍資金がいるのだ。
上杉謙信は、自分の立場(もともと家臣筋)を理解していたのではないだろうか。なぜなら、何度も反逆を企てても家臣たちを滅ぼすことはしなかったという・・・
上杉家の一門衆である越後長尾家は、三家(上田長尾家、古志長尾家、府中長尾家)に分かれ、そのうち上杉謙信が重用したのは、出自である府中長尾家と母の実家、古志長尾家である。
上田長尾家とは古くから敵対関係にあった。事実、上杉謙信の姉を妻にする上田長尾家当主・長尾政景は度々反乱を起こし、謎の溺死(できし)を遂げるまで続いたという。
このように上杉謙信は、国内の抵抗勢力に悩まされ続けた。しかし、上杉謙信が越後国主として君臨(くんりん)できたのは天才的な軍事能力が大きかったと思われる。
家臣たちの反乱に悩み上杉謙信が出家を宣言した時も、思い留まらせたのは家臣たちである。この時、すでに国主は上杉謙信しかいないと思ったのだろう。
上杉謙信死後、越後国内は再び混乱に陥った。後継者争い、2人の養子・上杉景虎と上杉景勝による「御館の乱(おたてのらん)」が勃発した。
この争いで勝利し、後継者となったのが上杉景勝である。その上杉景勝は上杉謙信に反乱を繰り返してきた上田長尾家当主・長尾政景の子であった・・・
【 武将アイコン 】は、「戦国武将絵巻」「戦国未満」からお借りしています。
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>でも、やはり画面が見えません(・・;
葉っぱですか?
花でしょうか?
植物には詳しくないのでお役にたてなくて申し訳ないです。
葉っぱなのか、花なのか・・・