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【 上杉謙信 】上杉謙信の家臣団と言えば「上杉二十五将」。米沢藩が幕府に提出した『上杉将士書上』がもとになっているといわれている・・・
【家臣団?】武田信玄・上杉謙信 戦国最強神話
【 武田信玄 】
武田信玄の家臣団と言えば、「武田二十四将(武田24将)」が知られています。この「武田二十四将」は、武田三代(信虎・信玄・勝頼)の時代に仕えていた武将たち。
しかし、「武田二十四将」はなぜ二十四将なのか、またその人選方法もはっきりとわかっていません。それに、武田信玄を二十四将に加えたもの加えないものまであります。
この「武田二十四将」は、江戸時代になって軍記物の流行があったという時代背景があります。なかでも、武田家の軍記『甲陽軍鑑』は広く読まれたという。
『甲陽軍鑑』が広く読まれた背景には、徳川家康が武田家滅亡後その旧臣を召し抱えたことや、武田信玄の軍法、領国統治を手本にしていたということが考えられます。
また、武田信玄や「川中島の戦い」を題材にした錦絵や屏風絵などが作られるようになって、「武田二十四」像が形づくられていったと想像する。
『甲陽軍鑑』の「信玄公御代惣人数之事」によると、
御親類集:武田四郎勝頼、武田典厩信繁、武田刑部少輔信廉、穴山玄蕃頭信君、一条右衛門大夫信竜、板垣駿河守信方
御譜代家老衆:甘利備前守虎泰、小山田左兵衛尉信茂、馬場美濃守信春、内藤修理亮昌秀、原美濃守虎胤、山県三郎右兵衛尉昌景、飯富兵部少輔虎昌、香坂弾正忠虎綱、土屋右衛門尉昌続、秋山伯耆守虎繁、栗原左衛門尉信盛
足軽大将衆・奉行衆:原隼人佑昌胤、横田備中守高松、小幡山城守虎盛、小幡豊後守昌盛、三枝勘解由左衛門尉昌貞、多田淡路守満頼、曾根内匠昌世、山本勘助晴幸
他国衆:真田弾正忠幸隆、真田源太左衛門尉信綱、真田兵部丞昌輝、武藤喜兵衛昌幸(真田昌幸)、小幡尾張守信貞
【 上杉謙信 】
江戸時代に「武田二十四将」が流行すると、その宿敵・上杉謙信の家臣団も「上杉二十五将」として知られるようになった。
武田信玄の軍記物『甲陽軍鑑』に対抗するように、上杉謙信を題材とした軍記物が出回るようになった。宇佐美定祐(さだすけ)が書いた『北越軍記』、『越後軍記』など。
寛文9年(1669)5月に米沢藩が幕府に提出した『上杉将士書上』が「上杉二十五将」のもとになっているといわれている。
上杉二十五将(上杉25将)
長尾越前守政景、長尾権四郎景秋、宇佐美駿河守定行、新津丹後守義門、金津新兵衛尉義舊、北条丹後守長国、色部修理亮長実、本庄美作守慶秀、本庄弥次郎繁長、甘糟備後守清長、杉原常陸介親憲、斎藤下野守朝信、安田上総介順易、高梨源三郎頼包、柿崎和泉守景家、千坂対馬守清風、直江大和守実綱、竹股三河守朝綱、岩井備中守経駿、中条越前守藤資、山本寺勝蔵孝長、吉江中務丞定仲、志田修理亮義分、大国修理亮頼久、加地安芸守春綱
上杉二十八将(上杉28将)米沢上杉祭りに登場
柿崎和泉守景家、新発田因幡守治長、島津左京進規久、水原壱岐守隆家、斎藤下野守朝信、竹俣三河守広綱、須田相模守親満、松本石見守景繁、下条薩摩守実頼、本庄越前守繁長、安田冶部少輔長秀、長尾近江守藤景、新発田尾張守長敦、山吉孫次郎豊守、加地安芸守知綱、高梨源太郎政頼、大河駿河守忠秀、鮎川摂津守清長、井上河内守清政、綿内内匠守広綱、村上左衛門尉義清、色部修理進勝長、宇佐見駿河守定満、中条越前守藤資、古志駿河守秀景、大崎筑前守高清、甘粕大江守景持、直江大和守実綱
武田信玄の軍師と言えば「山本勘助」、上杉謙信の軍師と言えば「宇佐美定行」と言われています。
しかし、山本勘助は最近の研究により実在していたことが確実視されるようになりましたが軍師とはほど遠い存在であった。また、宇佐美定行は架空の人物とされています。
「山本勘助」「宇佐美定行」軍師説は、江戸時代に流布した軍記物の影響が大きいと思われます。軍師として活躍したイメージだけが先走りしたのではないだろうか。
例えば、武田信玄の軍師「山本勘助」は「川中島の戦い」で戦死します。
その後、軍師不在の武田家はどうなると思いますか?
普通に考えれば軍師がいなくなったのだから武田家は衰退していくと考えます。ところが、その後も武田信玄は領土を拡げているのです。
それだけ武田信玄も上杉謙信も戦国武将としての能力が高かったのだ。だからこそ、軍師が存在していたというイメージだけが先走りしたのではないかと想像します・・・
【 武将アイコン 】は、「戦国武将絵巻」「戦国未満」からお借りしています。
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