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【 上杉謙信 】上杉謙信の最盛期の領土は120万石という。海運流通、特産品に力を注ぐ。織田信長に畿内と繋がる港を支配されては困るからだ・・・
【経済政策?】武田信玄・上杉謙信 戦国最強神話
【 武田信玄 】
戦国時代の武将たちにとって、国作りの基盤は領土であった。領土が広ければ多くの米の収穫が期待でき、そして人口が増え、さらに多くの兵が動員できるからだ。
武田信玄の最盛期には、甲斐・信濃・西上野・駿河を領有し、遠江・三河・飛騨・美濃の一部まで版図を拡大している。領土は130万石という。
武田家の本拠地は甲斐の山国であり、また洪水被害に悩まされる土地であった。武田信玄が当主になった頃は、石高も少なく、当然、人口も少なかったと想像されます。
そこで、武田信玄が真っ先に行ったのが治水事業と新田開発であった。
天文10年(1541)、治水事業が始まる。釜無川(かまなしがわ)と御勅使川(みだいがわ)による甲府盆地への洪水被害をなくすための堤防建設。
武田信玄は、ここに「信玄堤(つづみ)」と呼ばれる堤防を築くのだ。
永禄3年(1560)頃、「信玄堤」は一応の完成をみるが、しかし、この堤防建設は川の流れを変えるという困難を極めた工事であった。
そして、「信玄堤」堤防付近に「竜王河原宿」と呼ばれる村を建設し、棟別銭(税金)免除の特典をつけて新規居住者を募集したとされています。
宿に住む人々は釜無川の旧河道で新田開発に取り組んだり、「信玄堤」堤防の管理をしていた。その結果、多くの村が誕生したという。
また、武田信玄は山国・甲斐の特性を活かし産業振興策にも力を注いでいる。
和紙や漆(うるし)などの特産物、水晶の加工品などの特産品は甲斐(山梨県)を代表する産業となった。
その他にも、市場を開設したり他国からの商人も積極的に受け入れている。戦国時代は、商人の格好をしたスパイもいるが、それ以上にメリットを重視したのであろう。
秤(はかり)や枡(ます)などの度量衡(どりょうこう)と税制を統一するなど、実に見事な領国経営を武田信玄は行っていたのだ。
のちの征夷大将軍・徳川家康も武田信玄の経営手腕を学んだといわれています・・・
【 上杉謙信 】
上杉謙信の最盛期には、越後・越中・能登を領有し加賀・北信濃・上野の一部まで版図を拡大している。領土は120万石という。
上杉謙信の経済基盤は、日本海における海運支配が大きい。直江津湊、柏崎湊などの越後の港を支配し、越前の敦賀、若狭の小浜を経由して京都へと繋がっていた。
そのため、船が直江津湊、柏崎湊に入港する際、税金として納める金額だけでも相当の収入があったと想像する。
また、特産品の青苧(あおそ)の流通管理で利益を上げている。木綿が普及する前には、麻糸の原料である青苧を使用した越後丈布が庶民の衣料として普及していた。
だが、天正元年(1573)4月に武田信玄が死去したことで状況が変わった。
織田信長が勢力拡大を狙って動き出したのだ。
上杉謙信も越中・能登を攻め支配。これを天下取りを狙っての行動とも言われるが、畿内との流通を確保する狙いのほうが強かったように思われます。
それは、上杉謙信にとって織田信長に畿内と繋がる港を支配されては困るからだ。
上杉謙信は、畿内との流通は経済を支えるうえで重要と考えていたのだ・・・
【 武将アイコン 】は、「戦国武将絵巻」「戦国未満」からお借りしています。
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