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怒涛の勢いで北条方の軍勢を撃破。関東を席巻。北条氏康の本拠・小田原城へと進軍・包囲。その数、なんと10万を超える大軍勢であった・・・
上杉謙信(7)「関東管領職就任」
上杉謙信は、庇護していた上杉憲政(うえすぎのりまさ)から関東管領(かんとうかんれい)職と上杉姓の譲渡を申し入れられ快諾した。
永禄2年(1559)、上杉謙信は5000の兵を率いて上洛。
それは、本格的に関東へ進出するためには「大義名分」が必要と考えたからだ。
上杉謙信は、将軍・足利義輝へ、名刀、名馬、黄金3000枚を献上。
将軍・足利義輝は大いに喜んだという。そして、上杉謙信に関東管領就任の内意を与えた。
将軍とは言え、すでに幕府の権威はなく下剋上の時代であった。そのため、上杉謙信のような律義者・忠義者が嬉しかったのであろう。
その後、上杉謙信は天皇、関白・近衛前久(このえまえひさ)に謁見している。
その間、実に4ヶ月も本国・越後を留守にしていたのだ。
武田信玄は、上杉謙信が留守の間に行動を起こす。
越後国境を脅かし、川中島(かわなかじま)の押さえとして海津城(長野市)を築城、支配下に置いた。
永禄3年8月、帰国した上杉謙信は行動を起こした。
「関東管領として武威を示す」
前関東管領・上杉憲政を擁して関東へ出陣。
「北条氏康討伐」の檄を飛ばし、関八州(かんはっしゅう)の諸将らに参陣を促した。
この年の五月には一大事件が発生している。尾張の織田信長が、駿河の今川義元を「桶狭間の戦い」において討ち取ったのである。
そのため、甲斐・武田信玄、駿河・今川義元、相模・北条氏康の三国同盟に衝撃が走った。関東の情勢も大きく変わろうとしていたのである。
上杉謙信勢は、怒涛の勢いで北条方の軍勢を撃破。
関東の拠点として、制圧した上野(こうづけ)の廐橋城(前橋城・まやばしじょう)を、そして、前関東管領・上杉憲政を城主に選んだのである。
その後も、関東管領・上杉謙信連合軍は上野、武蔵へと進軍。関東を席巻。
翌永禄4年3月には、北条氏康の本拠・小田原城へと進軍・包囲。その数、なんと10万を超える大軍勢であった。
しかし、北条氏康・氏政父子は臆することなく籠城策をとった。「時を稼げば敵の兵糧は尽きる、さすれば退却しかあるまい・・・」
上杉謙信勢は、小田原城を攻囲するも決定的な打撃を与えることができなかった。
兵糧も尽きかけたことで上杉謙信は、「戦は引き際こそ肝心である。関東管領としての威厳は示した。これでよい。越後へ帰るぞ!」と決意。
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で正式に関東管領就任式を執り行い、上杉の名跡を継いだ後、小田原城の包囲を解いて越後へ帰った。
その後も、何度となく関東へ出陣することになる・・・。
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