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越後の国は、まさに下剋上の真っ只中。天文12年(1543)、長尾景虎(後の上杉謙信)は兄・長尾晴景の命により三条城へ向かった・・・。
「栃尾城の戦い」長尾景虎
世は戦国時代。
越後の国にも戦乱の嵐が吹き荒れていた。
越後守護代・長尾為景(ながおためかげ)がこの世を去った。後を継いだのが嫡男・長尾晴景(ながおはるかげ)である。
しかし、長尾晴景は病弱で越後国内をまとめる力量はなく、越後国内に不穏な空気が蔓延(まんえん)し始めたのだ。
「越後守護代・長尾は臆病者よ!」
と、豪族たちは勝手気ままに振舞った。
豪族たちの中でも増長ぶりがひどかったのは、中条藤資(なかじょうふじすけ)、本庄房長(ほんじょうふさなが)、色部勝長(いろべかつなが)ら揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる下越の国人たちだ。
揚北衆は、長尾晴景の命令も無視してついに反旗を翻した。この動きに同調するように中越・下越の小豪族も動き始めたのだ。
越後守護代・長尾晴景と揚北衆らによる戦いの最前線となったのが、下越と中越の間にある三条城(さんじょうじょう)、栃尾城(とちおじょう)などである。
越後の国は、まさに下剋上の真っ只中であった・・・。
■長尾景虎初陣
天文12年(1543)、長尾景虎(後の上杉謙信)は兄・長尾晴景の命により三条城へ向かった。
長尾景虎は、これまで春日山城下の林泉寺(りんせんじ)の住職・天室光育(てんしつこういく)のもとで修行の日々を送っていた。
軍略・兵略に精通し気性は激しく勇猛果敢であった長尾景虎は、この年に元服し立派な若武者へと成長していたのであった。
その後、長尾景虎は三条城から栃尾城へと移動。
栃尾城は、山城で険しい尾根と深い谷に守られた天然の要害である。当時、この周辺を支配していたのが栖吉(すよし)長尾一族である。
栖吉長尾氏の拠点は栖吉城と蔵王堂城(ざおうどうじょう)。その支城が栃尾城で、中越を防衛するための要の城でもあった。
また、長尾景虎の母・虎御前(とらごぜ)の実家が栖吉長尾氏である。
■栃尾城攻防戦
揚北衆や栃尾城近隣の豪族たちは、「若造一人に何ができる! ワッハッハ!」となめていたのだ。
雪が解け、春になると揚北衆や豪族たちは一斉に栃尾城へ攻め寄せた。
「長尾の子倅を討ち取るのじゃ〜」
「オォ〜〜〜!」
しかし、長尾景虎の采配ぶりは見事であった。本庄実乃(ほんじょうさねより)や栖吉城の長尾景信(ながおかげのぶ)、三条城の山吉行盛(やまよしゆきもり)らもよく戦っている。
この戦いは、長尾景虎の圧勝に終わった。
いや、近隣諸国にまで鳴り響いたに違いない・・・。
【 武将アイコン 】は、
「戦国武将絵巻」「戦国未満」からお借りしています。
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