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天文21年(1552)、小田原城城主・北条氏康に敗れた上杉憲政は上杉謙信に関東奪回を要請。以後、上杉謙信は関東へ13回(12〜13回との説もある)出兵するのであった・・・。
「関東侵攻(永禄3〜4年)」上杉謙信
| 上杉謙信による関東侵攻 |
| 1: 永禄3年8月〜永禄4年6月 |
| 2: 永禄4年11月〜永禄5年3月 |
| 3: 永禄5年11月〜永禄6年6月 |
| 4: 永禄6年12月〜永禄7年4月 |
| 5: 永禄7年10月〜永禄7年11月 |
| 6: 永禄8年11月〜永禄9年5月 |
| 7: 永禄9年9月〜永禄10年4月 |
| 8: 永禄10年10月 |
| 9: 永禄12年11月〜元亀元年4月 |
| 10: 元亀元年9月〜元亀元年12月 |
| 11: 元亀2年12月〜元亀3年4月 |
| 12: 天正2年1月〜天正2年5月 |
| 13: 天正2年10月〜天正2年12月 |
上杉謙信は、廐橋城で年を越した。
翌永禄4年(1561)、小田原・北条氏康との戦いが始まろうとしていた。
上杉謙信軍は、怒涛の勢いで関東、北条方の諸城を次々と攻略。
そして、北条氏康が守る小田原城を包囲。
春日山城を出陣した時には兵8000程であったが、関東へ進軍した頃には10万を越える大軍勢となっていたのだ。
先陣は岩槻城(いわつきじょう)城主・太田資正(おおたすけまさ)、二陣は忍城(おしじょう)城主・成田長泰(なりたながやす)、羽生城(はにゅうじょう)城主・広田式部大輔、深谷城(ふかやじょう)城主・上杉憲盛らが務めた。
越後軍は、直江実綱(なおえさねつな)、柿崎景家(かきざきかげいえ)、斉藤朝信(さいとうとものぶ)、中条藤資(なかじょうふじすけ)、本庄繁長(ほんじょうしげなが)、宇佐美定満(うさみさだみつ)ら主だった武将が加わった。
「難攻不落」と呼ばれた小田原城。
小田原城城兵は雨のごとく矢玉を降らせ、上杉謙信軍はそれを楯でかわしながら鉄砲乱射で応戦。ついに小田原城攻防戦が始まった。
小田原城包囲から1ヶ月半、上杉謙信軍は夜襲なども仕掛けたがついに攻略する事は出来なかった。
上杉謙信は、戦況不利と判断し兵を鎌倉へ引き上げる決断をした。
鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉謙信は、関東管領の正式な就任式を執り行った。
そして、前関東管領・上杉憲政の一字を賜り「上杉政虎」と改め、その後、将軍・足利義輝から一字を賜り「上杉輝虎」と改名している。
鎌倉から帰る途中、上杉謙信は北条方の拠点、上田朝直(うえだともなお)が守る松山城(まつやまじょう)を見事に攻略し越後へ兵を引き上げた。
北条氏康の勢力圏内に、上杉謙信は「関東の拠点を確保した」という充分に納得のいく内容であった。
その後も、上杉謙信、北条氏康、武田信玄による関東攻防戦は続くのである・・・。
【 武将アイコン 】は、
「戦国武将絵巻」「戦国未満」からお借りしています。
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