2008年07月21日
武蔵・松山城を奪還するため北条氏康は約5万の兵を動員。武田信玄と連携して上野・武蔵の上杉謙信方の諸城を次々と攻略していった。
常陸・小田城城主・小田氏冶が北条氏康に応じた。唐沢山城城主・佐野昌綱は再び北条氏康に味方、関東の諸将に呼びかけ反旗を翻した・・・。
常陸・小田城城主・小田氏冶が北条氏康に応じた。唐沢山城城主・佐野昌綱は再び北条氏康に味方、関東の諸将に呼びかけ反旗を翻した・・・。
「関東侵攻(永禄5〜6年)」上杉謙信
永禄5年(1562)1月、上杉謙信は小泉城(群馬県)城主・富岡重朝(とみおかしげとも)に参陣を要請し、上野国・館林城(たてばやし・群馬県)を攻めようとした。
舘林城は別名、「尾曳城(おびきじょう)」ともいう。
2月9日、城を守る赤井照景(あかいてるかげ)を攻め攻略。
3月には、越後・春日山城へ戻った。
7月には、松倉城・椎名康胤(しいなやすたね)を救援するため越中に出陣、神保長職(じんぼうながとも)を攻める。
能登守護・畠山義綱(はたけやまよしつな)の仲介により神保長職は降伏。
11月になると、武蔵・松山城を奪還するため北条氏康は約5万の兵を動員。
北条氏康は、武田信玄と連携して上野(こうずけ)・武蔵(むさし)の上杉謙信方の諸城を次々と攻略していった。
太田資正(おおたすけまさ)から救援要請を受けた上杉謙信は、春日山城を出陣。
だが、その行軍は大雪のため困難を極めた。
12月16日、沼田城(ぬまたじょう・群馬県)へ到着。
永禄6年(1563)1月、上杉謙信は関東の諸将に号令をかけ、松山城救援の兵を差し向けた。
2月4日、松山城落城。
上杉謙信は、松山城救援を諦め騎西城(きさいじょう・埼玉県)城将・小田家時(おだいえとき)を攻め、また忍城城主・成田長泰(なりたながやす)を降伏させた。
4月、上杉謙信は小山秀綱(おやまひでつな)が守る小山城(別名:祇園城・ぎおんじょう・栃木県)を攻め攻略。
佐野昌綱(さのまさつな)が守る唐沢山城(からさわやかじょう・別名:根古屋城・ねごやじょう・栃木県)を攻めて6月に越後へ帰国。
6月23日、上杉謙信が師と仰いだ林泉寺(りんせんじ)6代住職・天室光育(てんしつこういく)が死去。
ちょうどその頃、北条氏康は武蔵へ出陣、武田信玄は倉賀野城を攻めていた。
12月、上杉謙信は倉賀野直行の重臣・橋爪若狭守から救援要請を受け関東へ出陣。
上杉謙信は、和田城(わだじょう・群馬県)へ兵を進めるが、常陸(ひたち)・小田城(おだじょう)城主・小田氏冶(おだうじはる)が北条氏康に応じた。
そのため、上杉謙信は廐橋城(前橋城・まやばしじょう)で年を越すことになる。
永禄7年(1564)1月末、上杉謙信は太田城城主・佐竹義昭(さたけよしあき)、宇都宮城城主・宇都宮広綱(うつのみやひろつな)らを率いて小田城を攻略。
小田氏冶は、菅谷氏の土浦城へ逃亡。
その勢いで、上杉謙信は佐野昌綱が守る唐沢山城を攻めた。堅固な山城のため攻めあぐねたが、猛攻の末、2月17日、佐野昌綱は降伏。
10月、佐野昌綱は再び北条氏康に味方、関東の諸将に呼びかけ反旗を翻した。
10月24日、上杉謙信は三国峠を超え沼田城へ到着。
翌日から次々と諸城を攻略し、27日には唐沢山城を攻め佐野昌綱を撃ち破って越後へ帰国した。
関東攻防戦は、まだまだ続くのであった・・・。
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・天室光育(てんしつこういく)【越後・林泉寺6代住職】
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舘林城は別名、「尾曳城(おびきじょう)」ともいう。
2月9日、城を守る赤井照景(あかいてるかげ)を攻め攻略。
3月には、越後・春日山城へ戻った。
7月には、松倉城・椎名康胤(しいなやすたね)を救援するため越中に出陣、神保長職(じんぼうながとも)を攻める。
能登守護・畠山義綱(はたけやまよしつな)の仲介により神保長職は降伏。
太田資正(おおたすけまさ)から救援要請を受けた上杉謙信は、春日山城を出陣。
だが、その行軍は大雪のため困難を極めた。
12月16日、沼田城(ぬまたじょう・群馬県)へ到着。
2月4日、松山城落城。
上杉謙信は、松山城救援を諦め騎西城(きさいじょう・埼玉県)城将・小田家時(おだいえとき)を攻め、また忍城城主・成田長泰(なりたながやす)を降伏させた。
4月、上杉謙信は小山秀綱(おやまひでつな)が守る小山城(別名:祇園城・ぎおんじょう・栃木県)を攻め攻略。
佐野昌綱(さのまさつな)が守る唐沢山城(からさわやかじょう・別名:根古屋城・ねごやじょう・栃木県)を攻めて6月に越後へ帰国。
6月23日、上杉謙信が師と仰いだ林泉寺(りんせんじ)6代住職・天室光育(てんしつこういく)が死去。
12月、上杉謙信は倉賀野直行の重臣・橋爪若狭守から救援要請を受け関東へ出陣。
上杉謙信は、和田城(わだじょう・群馬県)へ兵を進めるが、常陸(ひたち)・小田城(おだじょう)城主・小田氏冶(おだうじはる)が北条氏康に応じた。
そのため、上杉謙信は廐橋城(前橋城・まやばしじょう)で年を越すことになる。
小田氏冶は、菅谷氏の土浦城へ逃亡。
その勢いで、上杉謙信は佐野昌綱が守る唐沢山城を攻めた。堅固な山城のため攻めあぐねたが、猛攻の末、2月17日、佐野昌綱は降伏。
10月、佐野昌綱は再び北条氏康に味方、関東の諸将に呼びかけ反旗を翻した。
10月24日、上杉謙信は三国峠を超え沼田城へ到着。
翌日から次々と諸城を攻略し、27日には唐沢山城を攻め佐野昌綱を撃ち破って越後へ帰国した。
関東攻防戦は、まだまだ続くのであった・・・。
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